2010年12月12日日曜日

煙草は究極のグルメ♪

禁煙ファシズムが吹き荒れる国は、食文化が貧しいのではないかと思う。
こういう国に限って麻薬など薬物乱用が蔓延しているのも興味深い事実である。
煙草は極めて高度に洗練された食文化だと思う。

美食家で陶芸家の北大路魯山人は、ふぐを無味の味と逆説的表現を使って称揚した。
ふぐにはもちろん、猛毒がある。
味も無く、しかも猛毒のある河豚がなぜ美食の象徴となるのか、禁煙ファシストのようなモノの価値のわからない無教養の輩には想像もつかないだろう。

私見だが、北大路魯山人は「食う/食われる」という食にまつわる弁証法を展開したかったのではないか。
食うものと食われるものという一見、固定的で静的な二元論的関係性をいかに止揚するか。
美食を契機に食うものが食われ、食われるものが食うというダイナミックな逆説的関係性に到達することこそ、最高の供養、賛辞ではないか。
美食の真髄とは、食う食われるの不毛な二元論から解放され、両者の関係性の交換、転倒、融合に最高の価値を見出すことではないか。

しかるにフグを食べると言う行為は、無味といい毒といいある意味、逆説に満ちた食材である。
本来、食っても舌に美味くなく、しかも命の危険まで冒して食べる必要性がある食材とは思えない。
むしろ、食べることを避けるべきではないのか。
犬猫など獣の類なら迷わずにそうするだろう。
しかし、それをあえて食するのが人間であり、またそこに食えるものと食えないものの固定的な二元論を超える関係性の転倒、止揚を見出せるのである。
それは食文化の多様性の展開が可能になる契機である。
事実、人間が好む味は多様であるが、その中には毒から派生したと思われる味も少なく無い。
例えば、酸味は本来腐敗物の特徴である。
辛味や苦味は文字通り毒性を警告するものである。
しかし、酸味や辛味、苦味は食文化に欠かせない要素であることは言うまでも無い。
人類が好む味覚の多様性という大宇宙の中にあって、フグの無味の味とはあたかも常に回帰し参照すべき不動の北極星のようである。
北大路魯山人は、あらゆる味覚の宇宙を渉猟した末に辿り着いた食の極北、食の世界の最果ての境界で、その彼方にフグを見たのであろう。
その境界を越えれば生きて帰って来ることはない無味の味、いわば超越的味覚に到達したのかも知れない。

毒というタブーへの侵犯―たとえ実際には毒を除去して食べる擬似的行為であるにせよ―があって初めて食の体系にダイナミズムが生じ食文化となる。
動物は決してそのような逸脱はしないし出来ない。
そのような行為は人間にしか出来ない。
いわば人間の特権であり、また人間の証明でもある。

ここまで書けば、喫煙がフグに優るとも劣らない洗練された食文化であることはもはや説明不要だろう。
例えば、キューバの高級葉巻のコイーバは、三回もの発酵過程を経て造られる発酵食品である。
煙草農家が幾世代にも渡って蓄積して来た高度な農業技術は、後世に受け継がれるべきものである。

こうして見ると反捕鯨論者も禁煙ファシストも同じ穴のムジナに見える。
彼らは食文化や異文化に無知で無神経で傲慢で独善的で暴力的である。
自分の理解できる範囲内が世界の全てだと信じたいようだ。
あるいは、自分に理解できるレベルにまで世界を矮小化し縮小させようと無駄にあがいている。
自分に理解できないものは否定し排除し何の疑問も恥も持たない偏執狂的人格の持ち主。
このナイーブで迂闊な純潔主義者達は、自らの無知と狭量を倫理や正義と勘違いしている。
間違っているのは世界ではなく、自らの矮小さであることを悟ろうとしない。
このような自我肥大症的で奇怪な逆説は、早晩崩壊するだろう。

禁煙ファシストの愛煙家や煙草への憎悪と偏見に歪んだ醜い顔と煙草追放を叫ぶ耳障りな金切り声が高くなればなるほど、控えめで寛大な安らぎを与えてくれる煙草が福音のようにますます価値あるものに見えて来るから不思議である。
さて、一服して寝るか(失笑)。

1 件のコメント:

KAZU さんのコメント...

私は喫煙家。内容には同意できるが、もう少し冷静な文章が好ましいかな・・・

公開はないか・・・・・